ベトナム旅行(1998.8.22〜9.2)

8月22日。友人Yと二人で仙台空港から出発しました。いつもは成田空港を使うのですが、今回初めて仙台空港を使いました(成田とあまり値段の差がなかったので)。仙台空港は成田と違って、人が疎らで静かでした。しかも、バックパッカー風の若い人がほとんどいない!ほとんどがパック旅行ではないかと思えるくらい、身なりのいい人ばかりでした。乗客数が多く、バックパッカーも多い成田は、再入国の時に荷物を開けられる可能性は低いようですが(でも、バックパッカーの中でもこ汚い格好をしてタイから帰国したときは見事に開けられましたが)、ここでは確実に開けられる、と確信して搭乗しました。17:50発KA321。
 香港到着21:50。荷物のチェックも何もない簡素な入国手続きを終え、市内でバスへ。案内板で番号を確認して、バス停へ。と、よく見ると営業時間が、夜中だけ。もう一度案内板まで戻って、今度は大丈夫、と思ったら、前に並んでいるおじさんが切符のようなものを手にしていました。そのおじさんに英語で(広東語ができないので)聞いてみると、どうも、お釣がないなら切符を買ってこないと駄目ということで、空港の中の切符売場を丁寧に教えてもらいました。あんなに丁寧に教えてもらえるなんて、幸先のいい旅行だと思いながら、再度引き返しました。
 バスCity Flyerに乗り込み、2階の一番前の席に陣取りました。新空港だけあって、市内への道路も橋も新品でした。
 市内の目的の場所でバスを降りると早速、客引きの兄ちゃんに声をかけられ、値段交渉をして、そのまま、付いて行きました。部屋は4畳半くらい、ベッドが二つと、小さなバスルーム。疲れてくると、ホテル探しは面倒くさくなって、一番始めで決めてしまうことが多いです。

8月23日。ホテル近くの粥屋さんで朝食を取りました。どうも家族経営みたいな様子、店員が多くて、年代がバラバラ、出口の会計にはおじいちゃん。こんな粥なら毎朝でもいいと思うほどでした。なぜか、「朋友(パンヤオ)!」と言われました。似てないと思うけど...。
 出口にいた、おじいちゃんは英語がよく分からないみたいでしたが、最後にお釣をもらうとき、「チー クワイ(7元)」と普通語で言われました。中国語(普通語)を話すチャンスを逃してしまいました。もっとも、頭の中が英語モードになっているときには中国語はなかなか出てきませんが。
 午前中は時間があったので、ビクトリアピークに登りました。やっぱり知らない町に来たらまずは高いところへ。スターフェリーで香港島に渡り、歩いてトラムの駅へ。途中、フィリピン人が道端で集まって、話をしているのを見かけました(場所によっては100人以上)。休日の情報交換の場になっているようです。トラムで上まで登り、景色を眺めました。30階、40階のビルが香港島の斜面に並んで建っています。あのビル一つ一つの一つ一つの部屋に人が住んでいるのかと思うと、不思議な感じがします。
 再度、City Flyerで新空港へ。14:45発CX791(ドラゴン航空だけどベトナム航空と共同運航のため、機体も乗務員(女性はアオザイ)もベトナム航空でした)。
 ハノイ着15:35。両替をしていると、タクシーの兄ちゃんが笑顔で手招きをしています。これに騙されました。値段交渉をして、荷物をトランクに入れて、駅へ。乗ったそばからホテルを紹介します。どこにでもあることなので、笑顔で断っていましたが、あんまりしつこいので、駅に行けと言うと、遠いとか難とか訳の分からないことを言い始めます。そして、高速道路の料金所の前に止まって、その料金払えと言い出します。後からチケットを見たら、払った額の10分の1でした。駅に着くと、今度はさっき言ったのは一人分だから、倍払えと言います。トランク開けたら払う、払ったら開ける、と睨み合うこと10分くらいでしょうか、中間の金額でなんとか開けさせました。警察に行こうと言っても、こっちがベトナム語ができないからか、知り合いがいるからか、動じませんでした。
 その国に来てすぐだと、物価や相場が全く分からなくて、ぼられやすいのですが、一番始めに一番ひどいやつにあってしまいました。こういう交渉は体力を消耗します。ハノイに行ったら、必ず、ライセンスを持ったエアポートタクシーに乗りましょう。
 次は、電車の切符です。外国人用の窓口に行って、フエまでの切符を買おうとしたのですが、窓口の人がパソコン(Windows3.1workstationだった)を立ちあげて、(多分ホーチミンかどこかのサーバーに)ログインしようとすると、爆弾マークが出てしまい、しばらく待たされました。
 二人で待っていると、日本人バックパッカーに声をかけられました。大学生のNさんも今夜フエに行きたいと言うことでした。
 2時間後パソコンがつながって、遅い列車のソフトシートしかない、全然ない、特急のソフトシート2枚とソフトベッド1枚がある、と話がころころ変わり、結局、私と友人Yはソフトシートを手に入れることができましたが、後から来たNさんは結局、高すぎるソフトベッドを諦め、明日の列車に乗ることにしました。
 切符を買ってから、3人で駅前のフォー(米の麺)屋さんで食事をしました。ガイドブックを見せて香菜(中国語でシャンツァイ、英語でコリアンダー、タイ語でパクチー)が入っていないことを確認したのですが、具の下味にちょっと入っていたようです。あの、何とも言えないイヤーな強烈なにおいが口の中に広がりました。
 ミネラルウォーターを買い込んで、8時ハノイ駅発。これがソフトシートかー、と思うような椅子(確かに木や竹ではないけれど)、しかも狭くて、背中に背もたれの中の支柱みたいなのが当たって痛い!これはちょっと厳しいなあと思いながら出発しました。

8月24日。寝たり起きたりを繰り返しながら、朝を迎えました。外は田園風景ですが、場所によって、耕作されていない田んぼを見ました。そういうところは、村もあまりないようで、人の姿もあまりありません。ただ、田んぼの様子を見ると、木が生えているわけでもなく、1、2年作っていないだけのように見えました。旱魃のせいか、ベトナム戦争で人がいなくなったのか、少しの間土地を休ませているのか、未だに分かりません。米軍が落とした爆弾の穴はあちこちにありました。友人Y曰く、橋があるとその周りは穴が多い。朝食はバナナと肉まんでした。差し出されて躊躇していると"No money"を言われました。ぼられて警戒してしまって、、こうなってしまうのは何ともいやなものです。
 フエ着9時頃。ホテルの客引きとシクロ(自転車の前が2輪になっていて、座席がある)が結構いましたが、(この頃までぼられたのが尾をひいて、ホテルまでただで連れて行ってくれると言うシクロに乗ったら断れなくなるんじゃないかと思って)とりあえず名刺だけもらってタクシーで市内へ。ハノイ駅で両替しようとしたら、日本円のT/Cは使えないと言われたので、ガイドブックを見ると、ベトコムバンク以外では使えないと言うことなので、まずはベトコムバンクへ。両替を終えて、今度は宿探し、バックパッカー向けの宿が集まる一帯まで歩いて行くと、ホテルの前で呼び止められます。2軒、中を見せてもらって、バルコニーのある清潔なホテルに決めました。
 これからその日のうちにすることは、ダナンからハノイまでの航空券を買うこと・昼食・市内観光・明日のツアーの申し込み・夕食と盛りだくさんです。昼間で休みを取って、昼食へ。近くをうろついているシクロのおじさんの「乗らないかい攻撃」に食事をするんだと答えると、そこにうまい店がある、ということ。見てみると、中学生くらいの女の子が手を振って呼んでいました。
 後で聞いてみると(結局4回もこのカフェに行ってしまいました)、高校生で、フエの近くに住んでいて、夏休み(3ヶ月)の間そこのカフェにいるとのことでした。ベトナムの人はみんな若く見えます。どうも、若い人は見た目+5才で、大人は見た目+5〜10才といったところです。
 昼休みが終わる時間を見計らってベトナム航空のオフィスへ。航空券は100ドル程度でしたが、ベトナムドンで払うにはあまりにも大金に思えて、カード払い。実際には変わらないのですが。
 シクロで旧市街地へ。フエ宮殿美術博物館・フエ省立博物館・阮朝王宮を観光。省立博物館にはフエの攻防戦(ベトナム戦争)の歴史が展示されていましたが、中に、ベトナム人が米軍の拷問を受けているところを人形を使って再現しているのがありました。ベトナム人は正義を背負った勇士。米軍の軍人はサングラスをかけ、パイプをくわえて、いかにもいやらしい侵略者。アメリカ映画でよく描かれる、ステレオタイプのベトナム戦争モノとは全く逆でした。王宮は北京の故宮博物館を小さくしたような感じでした。王宮では台湾人の団体様の後ろを歩いたりしていました。その中の1人と英語と普通語と若干の日本語でちょっと話しました。頭が混乱します。
 夕食はガイドブックで目星を付けていたシーフードレストランへ。歩いていると、皆に見られます。通り過ぎてからも見ているシクロのおじちゃん、目が合うと目をそらすお姉さん、興味津々の子供等々。自動車はあまり走っていません。橋の上で通行人に見られながら、数えてみると、自転車やバイクが100台通っても1台来ないくらいでした。

8月25日。今日は郊外の帝廟(阮朝の皇帝のお墓)へのボートツアー。乗客は日本人2人、ベトナム人親子、その他10人くらいの白人(さすがにベトナムはフランス人が多い)。外国人向けのツアーだと思っていたのに、なぜ?娘さん(多分、われわれと同じくらいの歳。よって見た目は20才前後)と話をすると、ハノイに住んでいて10日くらい休暇を取ってフエ・ダナン・ニャチャンを観光しているとのこと。それにしても、英語がうまい、と言うより流暢で、速いので、聞き取れないことがしばしば。デパートに勤めていると言っていたから、多分外国人も来るようなデパートでしょう。動きもスマートでした。帝廟の前で、お母さんと二人の写真を取ったらどうかと言ったら、断られてしまいました。帝廟は王宮と同じで、小中国と言ったところでした。
 昼食はボートの上で、ご飯・魚の煮物・油揚げと野菜の炒め物など(油揚げは旅行中2回食べました)。白人さんも箸で、と言うか、だいたい箸くらいは使えるようです。ちょっとぎこちない感じですが、握り箸の人なんかはいません。
 最後の帝廟(4つ回った)ではなぜか出発が遅く、それまでの間、お土産屋さんに座っていました。そこの子供(5才くらい?)と船に乗っていた子供(船は家族経営。一家全員が乗り込んでいるようでした)とガイドブックの料理のページを見てベトナム語を教えてもらったりして、遊んでいました。
 実はここが今回の旅行の当初の目的でした。大学でベトナムの近現代政治史を取ったとき、そのT教授(岩波新書『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』の著者)が、フエはアンコールワットよりも良い、と言っていたからです。その割には、まあこんなものかという感じでした。
 戻ってきてから、ドンバ市場へ。活気がありました。建物の中に(ベトナムの市場は建物の中が多い)、1階に雑貨・お菓子などなど、2階に生地と衣類、外に生鮮食料品が所狭しと並んでいます。特に生地屋さんは、生地のひな壇があって、その上の方に店の人が腰まで生地の中に埋まって座っているような感じでした。
 ここですげ笠を買いました。始め、おばあちゃんの所で値段の交渉をしようと思ったら、英語ができず、英語ができないだけで相手を変えてしまって、ごめんなさいおばちゃんと思いつつ、隣りのおばちゃんの所へ。値段を下げてもらおうとしたら、全国同じ価格で値引きはないとのこと。全般的に、ベトナムでは、生鮮食料品や市場ではあまり値引いてくれないようです。
 すげ笠を紙で包んで、ビニールの紐で縛ってもらいました(持つ所つき)。後にハノイで買ったときは、ビニール袋に入れてもらいました。こんな所から器用さや工夫がなくなっていくのか、などと友人Yと話をしていました(復活するときは、実用性を欠いた「ラッピング」と言うやつになるのでしょうね)。品定めをしていると、日本人団体観光客がやってきて、50円だよ、安いね、買わなきゃ損だよ、と話をしていました。確かに、為替レートで考えれば、5000VDN(ベトナムドン)は50円ですが、決して5000VDN=50円ではありません。彼らは本当にベトナムを旅行しているのでしょうか?私の場合、日本円と比較するのは、1その国の通過に慣れるまで、2高額の買い物をするとき、3日本でも売っているものを買うとき、4他の通貨(元・バーツなど)と比較するのに、日本円を媒介とするとき、くらいです。
 2階でホーチミンが着ていそうなシャツを衝動買い。
 外でタンロンを買っていると、乞食が集まってきました。一人にお金をやると、俺にも俺にもとなってどこまでもついてくると言う話を聞いていたので、早々に退散。乞食がいないのは香港と日本くらいでしょうか。お金を渡しても、渡さなくても、何とも後味の悪いものです。その場で何かができるわけでもなく、しかも、南北問題という形で、加害者側にいるわけですから。
 夕食はベトナム風お好み焼き。
 夜、またあのカフェへ。そこに、ホテルの前を拠点にしているシクロドライバーがいました(ホテルの近くで必ず会って、必ず声をかけてくる)。彼は2人目の子供が産まれて、家のローンがあるからお金がどんどんなくなっていく、と嘆いていました。そう言いつつ、カフェでビールを飲んでいましたけど。他の国では外国人向けのカフェやレストランには現地の人は滅多に入ってこないのですが、ベトナムでは結構、現地の人も食べていることがありました。
 バナナパンケーキとバナナシェイク。東南アジアを旅行するときはバナナが欠かせません。お腹の調子が良くなり、栄養があり、大抵どこでも売ってます。それに、日本ではプランテーションで作った多国籍企業のモノがほとんどなので、日本にいる時には買わない反動もあります。

8月26日。DMZ(ベトナム戦争当時、南北ベトナム国境だった非武装地帯)ツアー。当然バスで行くものと思っていたら、日本人3人だけ乗用車に乗せられて、出発しました。同乗した日本人はラオス国境近くで降りて、ラオスに入国するということでした。どうも、その人のために、観光の順序を変更してラオス国境に行くのを最後にまわすためのようでした(後から推測)。彼は、バンコクからカンボジアを通って来たそうです。アンコールワットで一日ボーッとしていた、治安もぜんぜん問題ないと言う話を聞き、来年の旅行は、アンコールワット・ベトナム南部に決めました(もっとも帰ってきてから情勢が不安定になってますが)。
 朝食をドンハの町で取っていると、少し遅れて、ミニバスに乗ったDMZツアーの人たちが来ました。ハノイ駅であったNさんと再会。同じツアーに申し込んでいたので、多分、人数が多くて乗れなかっただけですね、じゃあ次の所でまた会いましょうと行って、別れました。結局、夜にカフェで会うまであえなかったのですが、その時聞いた話によると、オーストラリア人が車に酔って吐き、バスが故障して替わりのバスを2時間待ち、時間がなくなって駆け足で観光しただけだったそうです。
 こちらは3人のゲストにガイドさんと運転手さんそれぞれ1人で、質問もし放題でした。
 ケサンへの途中、米軍がキャンプを張っていた所で写真を撮ったのですが、道から外れて、写真を撮ろうと思って歩いていったら、ガイドさんに危ないからもどれといわれました。2週間前に近くで地雷を踏んで人が死んだそうです。山には木がなく、下草やかん木程度しか生えていませんでした。枯葉剤の影響と少数民族が切ってしまったためだそうです。ラオス国境近くに行くと鬱蒼と茂った森がありました。
 山の中に入っていった所で、ガス欠。ガソリンスタンドからは5Kmくらいあるところで、どうするんだと思っていると、道端の雑貨屋(何でも屋?)から、ペットボトルで1本ガソリンを買ってきました。ガソリンはどこでも売っているようです。
 元米軍の飛行場だった所は今は何もなく、周りではコーヒーが栽培されていました(家々の庭にコーヒーの豆が干してありました)。いったい何のためにアメリカはここまで来たのか、と記念館のノートにどこかの日本人が書き残していました。
 夕食はブンボーフエ(激辛フォーのはずだけどあんまり辛くなかった)。その後店を変えて春巻を食べました。そこには日本人の女子大生風3人組・50代くらいの夫婦、たぶん『るるぶ』を見てきたのでしょう。
 今回私は『地球の歩き方』を、友人Yは旺文社の『個人旅行』を持っていきました。ちょっと前までバックパッカーが持っているのは『地球の歩き方』がほとんどで、団体様がちょっと入った個人旅行者はJTBのガイドブックといったところでした。ところが今回会った日本人バックパッカーの多くの人が『個人旅行』を持っていました。友人Yが言うには、『個人旅行』の方がシリーズが始まったばかりなので、情報が新しく、きちんと取材しているということでした。ベトナムについては今度行く時は『個人旅行』を持っていこうと思っています。どうした『地球の歩き方』!?『るるぶ』は私の場合問題外。
 店員さんに日本語を勉強している人がいました。ちょうど、タイガーカップ(ASEAN諸国が参加しているサッカーの大会で、シンガポールのタイガービールがスポンサー)の真っ最中で、それを見たかと聞かれました。大会の途中で香港に戻ってしまったので、どこが優勝したか未だに不明。そう言えば、去年タイを旅行したときもワールドカップの最終予選をやっているときでした。

8月27日。ダナンに旅行者向けのミニバスで(実際に乗ったのはバンだった)移動。今回の旅行は日程を決めてから面白そうなツアーを次々と見つけてしまって、個人旅行にしては団体旅行並みのハードスケジュールになってしまいました。いつもだと予備日とか休息日を1日か2日入れておくのですが、今回は無しです。その替わりではありませんが、1泊ビーチリゾート(やったことがないから、ビーチリゾートで何をすれば良いのか実はよく分からない)を計画しました。
 途中、ランコー村で休憩しましたが、ここの浜辺はきれいでした。次の日の飛行機の予約がなければ、ここに1泊したいところでした。ここで、Nさんとベトナム人親子に再会。
 ダナンから郊外のノンノックビーチまでバイクタクシーで。ホテルにチェックイン。友人Y曰く、あんまり客はいないし、建物にも工夫はないし、国営じゃあないの。
 ホテルに入って一休みしてから、昼食を取りに浜辺近くの食堂に入りました。ビーチには外国人が数人いるくらいでほとんど人はいませんでした。その後、近くの町を見て、果物でも買おうと散歩することにしました。ところが、近くには土産物屋しかありません。昼間の2時頃、炎天下を歩くだけで、汗が噴き出してきます。土産物屋からの呼び止める声を聞きながら、何十分も歩いているのですが、目当てのものは何もありません。そのうち、どこかの土産物屋の女の子が二人(一人はHさんだと後で聞いた)、すげ笠を被ってついてきました。店に入れというだけだろうと思って、相手にしないでいても、ずっと付いてきます。「どこに行くの?」「なんで歩いてるの?」と英語でいろいろ聞いてきます。そのうち、大きな道にぶつかりましたが、お店は見当たらないので、Hさんに聞くと、こっちだ、近くにあるから、と言われ、付いていきました。近い近いと言われて10分も歩いてやっと小さな市場にたどり着きました。Hさんに通訳をしてもらって、買うことができました。戻る途中で、今度は、あっちにお寺があるから行かないかと誘われて、近いと言う言葉を信じて、また付いていきました。そんなに遠くはないのかもしれませんが、何しろ、炎天下(影があんまりない)で30度は余裕で越しているような暑さで、ちょっと歩いただけで、顔中汗だらけになるような状態でした。でも、おかげで、ガイドブックに載っていない、洞窟の中の観音様やお寺をいくつも見ることができました。
 裏道を通って、Hさんの店に戻って、一休み。この時、友人Yは、頭がぼっーとしていたそうです。水を買って、ジュースを買って、お土産を勧められました。あれだけ案内してもらったから断りきれずに、買ってしまいました。また、店の前に、五行山と言う観光地があり、そこは6時になると人がいなくなってタダで入れるから、5時半になったら、またおいでと言われて、ホテルに戻りました。
 夕方になると、地元の子供が泳ぎにしましたが、20人程度です。人が少ない海でゆっくり(といっても1時間だけ)泳ぐことができました。
 また、Hさんの店に行こうとしたら、Hさんが途中まで迎えにきてくれました。歩きながら、いろいろ聞きました。英語は塾で習ったそうです。フランス語もできると言うことでした。ツアーであったベトナム人もおそらく、同じように勉強したのでしょう。ベトナム人は教育熱心なようです。海で泳がないのか、と聞いたら、たまには行くけど、普段は家でシャワーを浴びるということでした(海で泳ぐという発想そのものがちょっとずれていました)。五行山は岩山の上にお寺があるところです。夕暮れを山の上から見ることができました。
 夕食はホテル近くのレストランで。カエルに挑戦。ちょっと泥臭くて、「田んぼの鶏」とはちょっと違うような感じでした。
 夜は洗濯です。着替えはいつも4,5組しか持っていかないので、2日に一回ぐらいは洗濯しています。歩き回って、疲れて眠いところで最後の一仕事、これも個人旅行の楽しみ(苦しみ?)ではあるのですが。

8月28日。ハノイへ出発。Hさんの店まで歩いて行き、そこからバイクタクシーで空港へ。Hさんも友達のバイクの後ろに乗って、一緒に来てくれましたが、空港の検問で、止められたのでしょうか、残念ながら、最後の挨拶はできませんでした。
 ダナン発VN10:10。ハノイ着11:10(?)。国内線では旧ソ連製のアントノフがまだ飛んでいるそうなので、ちょっと期待(?)していたのですが、エアバス320でした(結局、今回の旅行では、5回ともエアバス320でした。ボーイングより落ちる率が高いらしい)。
 今回はエアポートタクシーで市内まで。まずは、ホテル探し。ミニホテルの並んでいる通りを行ったり来たりして、値段を聞いて探すのですが、大都市のせいか、思っていたよりもちょっと高いところばかりでした。泊まったミニホテルは、置いてある家具なんかが、なんとなく中華っぽい感じのするところでした。北部の方が中国の影が濃いのでしょうか。
 昼食はホテル近くの食堂(というほど大きくない。テーブルが3つくらい)で食べました。通りに料理が並べてあって、指を差すのですが、そこのおばちゃんが勝手にどんどん料理を持ってきてしまい、結局、レストランで食べるのと同じくらいになってしまいました。奥にテレビがあり、若い兄ちゃんがサッカーのニュースを見ていました。「中田を知っている。今日、タイガーカップ見るか?」ベトナムではサッカーとバドミントン(公園やちょっとしたスペースにコートの線が書いてあり、朝や夕方結構やっている人がいる)がメインのスポーツのようです。
 一休みしてから、明日のツアーの申し込みにグリーンバンブーカフェ行きました。行こうと思っていた1泊2日のタイ族の村のツアーは参加人数が少なく、行われないということで諦めざるを得ませんでした。強硬なスケジュールも夜行列車の切符もこのツアーのためだったのですが、ぽっかりと2日空いてしまいました。とりあえず、次の日のハノイ郊外の日帰りツアーを申し込みました。
 その後、歩いて、美術博物館・軍事博物館・クラフトリンク(NPO経営の手工芸品屋さん)へ。軍事博物館はフランス・アメリカとの独立戦争についての展示でした。帰り道歩きつかれて、交差点の真ん中のベンチで休んでバイクのラッシュを見ていると、そのほとんどがHONDAでした。たまにSUZUKIが通るだけで、9割はHONDAでした(バイクの修理工場もHONDAと書いてありますし、バイク販売店を見たときも、HONDAがずらっと並んでいて、端の方にSUZUKIが数台並んでいました)。
 夜、水上人形劇を見に行こうとしたら、今度はどこにあるのかが分からず、断念しました。湖のそばのベンチで休んでいると、子供が寄ってきました。英語ができないので、ガイドブックに付いている会話集で歳を聞いてみました。また、見た目よりもずっと歳をとっているので、今度は、生まれた年を聞いてみました。やはり、数え方のせいではなく、見た目が若いだけでした。宝くじ売りのおじさんも近寄ってきたので、1枚買ったけど、ハズレ。
 いつもはその国の会話集を買って行くのですが、あまり使う機会がなかったので、今回は買わずに行ってしまいました。会話集があれば子供とも結構話ができたのではないかと後悔しました。
 夕食はフランス料理。ここなら、安く食べられるだろうと思って、行きましたが、味はいまいち。
 帰り道、雨に降られました。スコールのように激しい雷雨で、これなら30分くらいですぐ止むだろうと思って、雨宿りをしていましたが、一向に止みません。タイガーカップのベトナム対シンガポールが始まってしまいました。この時間、向かいの店も、あっちの家でも、サッカーを見ているのが見えました。突然、わーー、という歓声が町中から上がりました。点が入ったようでした。たびたび、声が上がり、これではテレビを見ていなくても試合の様子が分かるのではないかというくらいでした。1時間以上経って、やっと小降りになったので、走ってホテルに戻りました。

8月29日。ホアルー・ビックドンツアー。ミニバスに白人連合(友人Yはなぜかこう呼ぶ)10人ちょっとと日本人2人(すごく疲れきった顔をした女子大生風)。ガイドさんは中国人かと思うような人でした(漢字は読めないといっていたので、華僑ではないらしい)。ビックドンは桂林の下半分を水に沈めたようなところで、底を竹で編んだ5,6人乗りの小船で見物しました。

8月30日。今日はレンタサイクルで、市内観光。フロントで貸してくれるところを聞いて、行くと、ホテルのそばの市場の中でした。すぐ近くにあっても、大通り以外は歩く機会がないので、なかなかこのような所は見つかりません。市場の中でフォーを食べ、さらに偶然見つけた生春巻きを食べました。皮を作る人と具を包む人(多分、親子)の2人で次から次へと手際良く作っていくのですが、具を包む方の人が会計も兼ねていて、お札をつかんだ手で、また具を包んでいました。
 レンタサイクルを借りて、町中を走ると、今まであまり気づきませんでしたが、排気ガスで空気はかなり臭いのが気になりました(といっても、バンコクに比べると全然きれいですが)。途中で、ビアホイ(生ビール)を飲みましたが、なんか変な味がしました。その隣では、日本人(駐在員?)がテニスをやっていました。
 半日で戻ってきてしまい、カフェでシェイクを飲みながら、午後何をするかを相談しました。何気なく壁を見るとMuseum of Ethnologyのポスターが貼ってありました。民俗博物館は町外れにあり、30分かかってやっと着きました。昼休みが終わったばかりのせいか、或いは、開館したばかり(1997年11月)のせいか、人が余りいない様子でした。建物は凝った建物で、中も充実したものでした。ベトナム内の少数民族の民俗を一つ一つ丁寧に説明・展示してありました。一見の価値のある博物館です。電車の切符が手に入って、ツアーに行けなくなって、カフェで休んで、ポスターを発見するということが一つでも欠けていれば、見ることができないところでした。

8月31日。前日に買ったパンとバナナを食べ、ミニバスで空港へ向かいました。ハノイ空港は、日本の地方空港よりも小さいくらいですが、3階建てくらいのターミナルビルを建設中でした。ハノイ発9:55 CX790
 香港着12:40。CITY FLYERで市内へ。今度はかの有名な重慶(チョンキン)マンションへ(バックパッカー向け安宿が多く入っているビル)。と思ったら、客引きのおばちゃんに圧倒されて、また、MIRADORマンションへ。中を見せてもらって、今回は窓なし・エアコン付き・トイレバス共有の部屋を選んでチェックイン(香港の物価はドルペッグ制のため日本より高いぐらいだった)。
 町の両替屋で、安いところを探し、両替(両替屋によってレートが違う)。ショッピングモールのようなところに入って、その中のファストフード店で坦々麺を食べるが、これがインスタントみたいで最悪でした。器は使い捨て。ちょっとオシャレなショッピングモールに入ったのが間違いでした。
 再度、香港島に渡って、「恋する惑星」の舞台にもなった世界最長のエスカレーターに途中まで乗って(空港でも長いエスカレーターを見ましたが、香港人はエスカレーターが好きなのでしょうか?)、上環をぶらぶら歩きました。書店によって、中国語のパソコンの本を買いました。ついでに、"LONELY PLANET"(地球の歩き方の英語版みたいなやつ)の日本編やベトナム編を立ち読みしてみました。日本編は安宿が見つかるのではないかと思ったのですが、情報量が少なく、あまり役に立ちそうにもありませんでした。ベトナム編を見ても、同じで、よくこれで旅行ができるなと思うくらいでした。ガイドブックが詳しすぎるというのも、一長一短でしょうが、とりあえず、日本の出版社に感謝。
 香港で街を歩いていても、日本人と香港人の区別はあまりつきませんでした。他のところだと、格好や顔つき、衣服で分かるのですが、香港については、区別は口では言えないくらいの違い(雰囲気みたいなもの)しかありませんでした。
 HMVでCDを物色して(日本より高いので買わなかった)、雨宿りがてらココナッツミルクを食べて、ホテルに戻りました。
 行きの時は何とも思わなかったのですが、香港人が太って見えました。日本人と同じくらいの体型でしょうが、ベトナム人を見た後に見るとみんな太って見えます。思い返してみると、ベトナムの人は本当に痩せていました。それも、病的な感じはぜず、健康だけど、足も腕も非常に細いのです。確かに、サオザイは太った人は着れないでしょう。

9月1日。朝食は、飲茶。うまかった。今まで食べたシュウマイの中で一番美味しいえびシュウマイでした。普アル(さんずいに耳)茶を飲みながら、お粥やシュウマイ、包子。
 KCRで大陸のシェンチェン(深 つちへんに川)へ。数年前に来たことのある友人Yは、その変わりように驚いていました。今ではビルが建っていて、活気のある街です。そこから、ミニバスに乗って民族文化村へ行きました。そこには、中国に住んでいる民族の家が再現されていて、その民族の人が踊りや、歌を見せてくれます。数年前は、牛がいたりして、生活感のあるところだったそうですが、今はすっかり見世物になっていました。
 昼食はその中で。包子やピーマンの肉詰めを頼みました。ピーマンの肉詰めを食べながら、これが青トウガラシでもいいのになあ、と冗談を言っていたら、最後に食べたピーマンが本当に辛い青トウガラシでした。意表を突く辛さに心臓が早くなり、血圧が上がる感じでした。
 雲南では青トウガラシの炒め物を食べ、タイでは涙と汗が止まらないスープを飲みました。辛いのを食べるのは南の方を旅行するときの楽しみでもあるのですが、今回の意表を突く辛さにはちょっと参りました。
 KCRの駅まで戻って、駅前のデパートを見て回りました。うろついていると、売春の客引きのおばさんに声をかけられます。乞食もいました。小さい子供を抱えた女の子(食べるものも食べていないでしょうから、年は想像できません)が首の座らない赤ん坊を抱いて寄ってきました。その目には希望のかけらも感じられませんでした。赤ん坊は妹でしょうか?自分の子供でしょうか?目を背けたくて、缶の中に硬貨を入れて立ち去りました。乞食とほとんど出会わないのは、日本と香港です。他にもそんな国はあるのでしょうか?
 香港に帰るとまた物価が高いので、ここで食事をしていくことにしました。海鮮料理の店に入ったのですが、誰も他にお客さんがいなくて、ウェイトレスの小姐に注目されながら食べました。一人の小姐と話をすると上海の出身だそうです。日本人だというと、本当なの?と言って信じないので、パスポートを見せて、どこの人に見えると聞くと、「中国的北方人」と言っていました。本当かな?
 たまたま入った、デパートで日本語香港ポップスのテープ(CDはあまり安くない)を見つけ、安いのをいいことに買いだめしてしまいました。。 KCRで香港に戻り、女人街・男人街を歩きました。訳の分からない日本語が書いてあるTシャツを着ている若者がいました(後から知ったのですが「日式」が流行っているそうです)。

9月2日。朝食は昨日と同じ店で飲茶。いろいろ食べようと思っても、なかなか入らないものです。餃子や包子が4つくらい入った小皿を二人で3つ、4つ頼むともうお腹がいっぱいになってしまいます。
 9:25香港発KA320。仙台着14:45。
 入国の時、荷物を開けられると思っていたのになぜか開けられませんでした。せっかくバックパックの中をきれいにして帰ってきたのに(前回は汗の染み込んだ衣類をくしゃくしゃのまま突っ込んできた反省から。開ける方の人もひどかったしょうね)。

終わり (実際にはこれから、熱塩加納村までバス・新幹線・鈍行列車*2・自転車と乗り継いで、帰宅したのは10時過ぎでした)

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