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 今回の旅行はフィリピン。特に行きたいと思っていた国でもありませんでしたが、夏に大学時代の友人がNGO職員としてフィリピンのネグロス島に赴任しました。こんな機会でもないとフィリピンには行かないだろうし、NGOでの体験話を聞いてみたいと思い、今年の旅行はフィリピンにしました。
 8月末に友人から、隣のパナイ島に植林に行き、10月には戻るというメールをもらいました。そして、10月下旬なら大丈夫だろうと思い、航空券を取ったのですが、出発直前になっても一向に連絡が取れませんでした。NGOの東京本部に現地事務所の電話番号と住所(私書箱しか教えてもらえなかった)を問い合わせ、電話をかけてみましたが、かかりませんでした。現地事務所にいないならば、植林をしている場所に行くことも考え、植林をしている場所をNGOのウェッブサイトで調べ、そこの地図を、フィリピン人と結婚している職場の人からもらいました。ただ、東京本部に聞いたところ電話もない所ということで果たしてたどり着けるかどうかは分かりません。
 とりあえず、行ってみて、どうしても会えないようだったら、ルソン島に戻って世界遺産の棚田を見たり、ビーチリゾートでゆっくり過ごしてもいい、というぐらいのいい加減な予定の立て方で出発しました。

10月20日。成田発マニラ行きPR(フィリピン航空)431便。朝9:30の出発なので、前日は成田のおじさんの家に泊めてもらいました。
 ほぼ時間どおり約4時間のフライトでマニラの国際空港に着きました。フィリピン航空が使っているターミナルビルは新しく、乗り継ぎは同じターミナル内の反対側に移動するだけですみました。入国手続き・税関の前に国内線のチェックインという変則的な順番で手続きを終えました。次に両替。数週間前からフィリピンペソのレートを新聞で追っていましたが、日に日に下がっていました。空港内の銀行はレートが悪いということだったので、100ドルのT/Cを1枚だけ両替しました。T/Cを出すと、現金よりもレートが悪いといわれました。普通は逆なのに。
 国内線ターミナルに移動するのに外に出ると、夏のようなむっとする暑さでした。この瞬間に、感覚的に体に残っていた東京の温度が消えてなくなり、東南アジアに来たという実感が湧きます。出口でHISの案内人(?)に搭乗券を見せて、国内線の4番ゲートと言われる。出発まではまだしばらく時間があったのですが、どこかに行くほどの時間でもないし、そんな元気もありませんでした。飛行機に乗った疲れからか、あまり体調は良くありませんでした。前日おじさんの家で夜中まで手塚治虫の『ブッダ』に読みふけっていたのがいけなかったのかも・・・。
 4番ゲートの近くの席は埋まっていたので、6番ゲート近くに座って体を休めつつ、時々4番ゲートの様子を見に行っていました。4番ゲートの表示は14:50DAVAO行き。私が乗るのは15:00BACOLOD行き。おかしいな、と思いながら放送を聞き逃さないようにしていました。出発30分前になってもその表示のままで、ダバオ行きのチェックインが始まりました。バコロド行きの人もいるのではないかと思い、並んでいる人の搭乗券を覗き込んだり、どこに行くのかを聞いたりしたのですが、みんなダバオ行き。あせる、どうなっているの?次ではないかと言われ、近くの席に座って待っていようと思ったら、バコロド行きは8番ゲートだという放送。飛行機に乗ってみるともうほとんどの人は乗り終わっていました。多分何度も放送があったのでしょう。全く聞き取れなかった・・・。
 隣の席にはフィリピン人の女性が2人。既に座っている2人の奥の席に入るとき"Excuse me"というと「どうぞ」という返事。ああ、片言の日本語を知っているのか、と思ったら、そうではなくて、日本から帰省で戻ってきた人たちで、神奈川に住んでいるGさんと北海道に住んでいるVさんでした。私が友人に会いに初めてフィリピンに来たけど、会えるかどうか分からないことを説明すると、同情してくれて、Vさんがホテルまで送ってくれることになりました。今思うと、体調が悪くて相当元気のない顔をしていたかもしれません。Vさんにはこの後しばらくお世話になることになります。バコロドはちょうどマスカラ祭りというお祭りをやっている最中だということを聞きました。
 バコロド空港は小さな空港でした。Vさんの荷物が出てくるのを待ちました。出てくると言っても、屋根だけで壁のない所にベルトコンベアがあるだけなので、飛行機から荷物が下りてきて車に積まれるのが丸見えです。20分ぐらいしてやっと荷物が届きました。いつも自分の荷物は機内にすべて持ち込むのでこの時間を省略することができます。
 たくさんの人が出迎えに来ていました。Vさんの家族もVさんのおじいさんから2人の息子まで、総出で迎えに来ていました。10人以上いたようです。出迎えの車は中古のジプニーでした。ジプニーはトラックの荷台に屋根と長椅子を付けたような乗り物で、乗り降り自由のバスのようにそれぞれ決まった路線をぐるぐる回っています。市内の路線なら次から次に来るので待つ必要はほとんどありません。
 そのジプニーでホテルまで送ってもらいました。ちょっと高めでしたが、お祭りの最中ということもあり、そこに決めました。Vさんは友人の事務所探しを手伝うから明日の12時に迎えに来ると言ってくれました。
 夕食まで少し休もうとベッドに横になりました。ただ疲れているだけでなく、なんとなく熱っぽい感じだったので、結局夕食を食べに部屋を出たのは8時近くでした。階段を降りていると、従業員に呼び止められ何号室か聞かれました。鍵を見せると、鍵を取って部屋の方に歩き出します。迷っているのと間違われたのかと思いつつ、付いていくと、どうも、前に泊まった人が何か忘れ物をしたようです。これはあなたのか、バッグや服はなかったかとたずねられます。棚にあった服を持って、礼を言うと従業員は戻っていきました。
 外には焼き鳥や果物の屋台がたくさん並んでいました。まずは、食堂に入りましたが、メニューをくれと言っても通じませんでした。英語を話せるのは一人だけのようで、メニューはないと言い、何があるのかを話し始めましたが、フィリピン訛りの英語のせいか、聞き取り能力のなさのせいか、"needle"しか聞き取れませんでした。とりあえず、それとサンミゲル(ビール)を頼みました。麺はインスタントのような感じでいまいち。ビールは日本で飲む気にはなれないのですが、東南アジアを旅行するときはおいしく飲めます(ただし、冷房の効いていない所で)。

10月21日。午前中が体調が悪くテレビ(CATVで香港のスポーツ番組やアメリカのドラマをやっていました)を見ながらゴロゴロしていました。約束の12時にチェックアウトして、表で待つためにホテルを出ようとすると、フロントで呼び止められました。Vさんからの電話で、事情があって1時頃になるからお昼でも食べていて、ということでした。
 昼食を食べる所を探しながら町の中を歩いて回りました。お祭りのためか人通りはかなり多く、道端には所々に人の背丈ほどもあるスピーカーが4、5台ずつ置いてあって大音響で音楽を鳴らしていました。レストランを探して歩いていたのですが、見かけるのはファストフード(マクドナルドからパンシットという麺類を出す現地のチェーン店までいろいろ)と食堂だけでした。ちょっといいレストランに入って見ようかと思っていたのですが、結局、食堂に入り、肉と野菜をパティス(魚醤油=しょっつる=ナンプラー=ニョクマム)で煮たおかずとご飯とサンミゲル。テーブルの上にはパティス・塩・コショウとトウガラシが漬けてある酢が置いてあります。激辛を期待して酢をかけてみたのですが、あまり辛くありませんでした。
 まだ、時間があったのでセントラルマーケットをぶらぶらと歩いてみました。海の近くだけあって、魚を並べている人が結構いました。時々魚に水をかけています。米は1kg18ペソから21ペソ。他のアジアの国に比べて、その国独特のものや立ち止まってみたくなるもの、なんだか分からないものが少なく、(旅行者にとっては)平凡で面白味がないという感じでした。
 街を歩いていて、運転マナーが良いのに気付きました。勿論、日本に比べれば悪いのですが、中国やタイのように、人を轢いても減速しないという感じではなく、車の前に出ればそれなりに減速してくれます。街の中には信号が1つもないことがかえってマナーを良くしているのかも知れません(大きな交差点で何度か交通整理の警官を見ました)。
 1時にホテルに戻って、ホテルの前でVさんを待ちました。40分待っても来ません。アジアを旅行していると、待つことには慣れっこです。フィリピンだってこんなものだろう、と思う反面、Vさんは日本で暮らしているのだから、来ないということは何かあったのだろうか、とも思いました。ちょっと不安になりながら待っていると、2時過ぎにフロントから呼ばれました。フロントの女性の比較的訛りの少ない英語に耳を傾けると・・・Vさんから電話が来たが、私の姿が見えないので、私の友人が迎えに来て行ってしまった、と伝えたということでした。フロントからVさんに電話して説明すると、「あの女、嘘を言った」と言って怒っていました。2:40に白いパンツの甥が迎えに来るということになりました。
 時間を少し過ぎたころに甥のC君が迎えに来てくれて、彼の後を付いていきました。市役所まで行くと、そこでVさんのお母さんが道端でリンゴ(中国からの輸入物でした)売りをやっていて、Vさんの妹(姪?)らしき人もいました。私の友人の事務所があるバゴまで(自家用)ジプニーで送るということなのですが、ジプニーで病院に行っているので、まずはそこまで、C君とVさんの妹と一緒にタクシーで行きました。
 ところが、ジプニーは既に違う所に行ってしまっていたようでした。すると、2人は狭い路地に入っていきました。何があるのかと付いていくと、公衆電話でした。そこからVさんに電話を入れていました。ジプニーが街に出てしまったので、まず、友人の事務所に電話をして、ダメだったら(乗合)ジプニーでバゴに行くということになりました。その公衆電話から電話をかけようとすると、市外電話はかけられないということで、タクシーで、PLDTという電話局に行きました。そこでテレフォンカードを買って電話をかけたのですが、それでも通じませんでした。結局、C君と2人でバゴに行くことになりました。タクシーで今度はバス乗り場のあるLibertadへ。そこでバゴ行きのジプニーに乗り換えました。10分ぐらいで乗客がいっぱいになり出発。町を抜けるとサトウキビ畑と水田が広がっていました。30分ほどでバゴに着きました。バゴ郵便局の私書箱しか手がかりがないので、まずは、郵便局を目指します。目指しますといっても、C君に付いていくだけですが・・・。バゴの郵便局は土曜日の夕方のためか既に閉まっていました。
 ちょうど、向こうから歩いてくる人に事務所の場所をC君が聞いてみると、運良く事務所の場所を知っていました。C君は戻らなければならないと言います。今度はバコロド行きのジプニーに乗って来た道を戻ります。私書箱は確かにバゴの郵便局なので事務所はバゴにあるはずです。C君に事務所はバコロドとバゴの間にあるのか、それともバコロドにあるのかを聞きたかったのですが、うまく通じなくて、不安なまま乗っていました。半分ぐらい戻った所でジプニーを降りました。どうやら、この近くのようです。街道沿いの小さな街という感じの所で、そこから、今度はバイクタクシーに乗りました。バイクに6人ぐらいが乗れるサイドカー(?)を付けて走っています。20人以上乗っていることもありますが、その時は加速がもどかしいくらい遅くなります。10分ぐらい、水田の中を行くとそこに事務所がありました。
 まわりは田んぼだけで、敷地内のバスケットコートで遊んでいる人たちがいました。事務所は閉まっていました。人が近づいてきました。日本人だと思って日本語で話しかけると、フィリピン人でした、が、日本語で話していました。友人のMさんの話をすると、日本人のTさんを連れてきてくれました。事情を話すと、連絡が取れたら電話を入れるから、電話を教えて欲しいということでした。ホテルが決まっていなかったので、とりあえず、Vさんの電話番号を伝えました。Mさんのいる植林プロジェクトの現場は電気も電話もない所で、連絡を取るのに時間がかかる、25日に戻ってくる予定だが、植林は終わっているそうなので、23日にも戻ってこれるかもしれないということでした。東京本部に聞いた電話番号は調子が悪くてキャンセルになり、新しい携帯の番号を教えてもらいました。
 とりあえず、Vさんに顛末を話さなければと思い、Vさんの自宅まで連れていってもらいました。自宅は町のすぐ近くと言っていたので、それからホテルを探しても良いかと思っていたのですが、Vさんの家はジプニーでLibertadのバスターミナルから町の中の別のターミナルへ行き、さらにそこから30分ほど郊外に行った所でした。しかも、その郊外の小さな住宅地まで途中は真っ暗な水田地帯の中を走って行きました。半分くらいの乗客が降りてしまい、一体どこまで行くのかと思っていると、やっと、着きました。
 Vさんの家には、Vさんの兄弟姉妹や甥姪が集まっていて、賑やかでした。Vさんは7人兄弟で、皆近くに住んでいてよく集まってくるそうです。サンミゲルをごちそうになりながら、事情を説明しました。そして、Vさんの好意に甘えて、結局、その日一晩泊めてもらうことになりました。明日に電話が来るかもしれないし、この時間(確か9時頃)からホテルを探すのは厳しいということもありましたし、めったにないチャンスでもありました。
 Vさんの家はコンクリート造りで、自分たちで作っている途中(1人だけ大工さんを頼んでいる)でした。窓がない所にはレースのカーテンのようなものがかけてあったり、玄関は作っている途中のようで、どこが玄関なのかはっきりしない建物でした。寒い訳ではないので、ゆっくり作っても特に問題はなさそうです。台所はあっても、水道はないようで、外から汲んできていました。電気製品は、テレビ・カラオケ・CDプレーヤーなど(多分日本製のもの)、冷蔵庫は故障中。
 10時頃になって、リンゴを売っていたVさんのお母さんを迎えに行って、お祭りを見てくることになったので、一緒に連れていってもらいました。また、(自家用)ジプニーにみんなで乗って町へ向かいました。街に行く途中に、Vさんのお兄さん(船乗りで鹿児島・横浜に行ったことがある。今は4ヶ月の休暇中)の家に寄りました。大通りから守衛のいる門を通って、住宅地の中に入りました。"Segregation"。その単語にちょっとどきっとしましたが、高級住宅地のことでした。守衛のいるsegregationの方が高級だそうです。
 市役所の近くには乞食が寝ていました。内戦のためでしょうか、ミンダナオから来たそうです。お母さんを拾ってから、遊園地に行きました。目立ったのは15mぐらいの高さの観覧車のようなものでした。観覧車といっても、かなり早く回っているので、観覧車でジェットコースターの気分を味わうような乗り物です。ビールと焼き鳥で1時近くまで飲んでいました。その時間になっても人が全然減りません。
 帰り道には別のお兄さんの家に送ってから帰りました。途中、真っ暗な所でギアが入らなくなりました。こんなところで止まってしまったら・・・、3回目でギアが入り、また走り出しました。

10月22日。朝食はココナッツ入りちまきと豆の入った春巻。日本の料理と似ています。午前中は話をしたり、子供たちを見ていたり、その写真を撮ったりしてのんびりしていました。まだ、頭が重く、体調不良でした。
 昼食はサヤインゲンを炒めてニンニク・タマネギ(小さいタマネギが普通)・砂糖・塩・パティスで味付けしたもの、野菜の煮込み、干した魚を揚げたものにごはん。いつもは肉料理を外から買ってき食べることが多くて、あまり台所は使っていないけど、今日はお母さんの手料理。
 午後、マスカラフェスティバルを見に、ジプニーでダウンタウンへ出発。Vさんの弟がパレードに参加して踊っているので、市役所の2階からパレードを見ました。離れていて、残念ながら、よく見えませんでした。道の両側は人が多くて近づけそうにないのでやむを得ません。
 その後、Vさんとその子供とジプニーを運転していたお兄さんのBさんに連れられて、甘いものを食べに行きました。おはぎ・すあまのような感じで食べたことがあるような味ばかりでした。ココナッツミルクと紫色の着色がフィリピンを感じさせます。
 今日はホテルに泊まることにしました。VさんとBさんと一緒にホテルを探してもらいました。ダウンタウンのホテルは満室だったり、高い部屋しか残っていなかったので、ダウンタウンから10分ほど歩いた所のホテルにしました。しかも、部屋代をけちってエアコンTVなしの350ペソ。夜7時に迎えに来るので、それまで休んでいてと言われました。その間に友人の事務所に電話を入れてみるが、まだ、連絡がつかないそうです。ホテルの電話番号を伝え、ひたすら待つだけ。
 7時になってもVさんが来ません。・・・。10時まで待ったのですが、来ないので、電話をしてみると、頭が痛くて寝ていた、連絡しなくてゴメンネ、とのこと。TVありの部屋であれば、マスカラ祭りを見ながら待てたのに、と後悔。
 外で夜ご飯をと思ったのですが、すでに店は閉まっていました(最悪でもマクドナルドで、と考えていたら、そこも閉まっていました)。果物屋でバナナとオレンジを買って帰りました。11時頃、Vさんの家に置いてきた荷物を届けてもらいました。外を見ると、いつものジプニーに皆乗っていました。これからまたどこかへ繰り出すのでしょうか?何かジェスチャーをしていましたが、一緒に来ないかという意味だったのかもしれません。

10月23日。8時半に事務所から電話がありました。友人のMさんはこちらに向かっていて、今日の午後にこちらに到着する、着いたら電話を入れるとのことでした。午後はホテルで電話を待っているより他なさそうです。フロントでもう1日延長しました。午後も部屋を占領していると、追加料金を取られるので、無駄になっても1日伸ばした方が得なので。
 朝はホテル近くの普通の食堂でご飯とスープ、ビーフンの炒め物。
 午前中はダウンタウンを歩きました。両替所を探したのですが、見つからず、やむを得ず銀行に入りました。T/Cを両替したいと言うと、待つように言われました。窓口に並んでいる椅子の端っこに座って待ちました。その間も後から来た人が次々に抜かしていきます。積極的に声をかけないとそのままずっと待たされるのか、でも、さっき待つようにいわれたし、どうしよう、迷っていると、15分くらいしてやっと両替をしてもらえました。
 言葉のせいなのか、しくみが分からないせいなのか、旅行中に待つことは多いのですが、不安になります。往々にして、いつまで待てば良いのか、待っているだけで良いのか、分からないことが多いのです。列を作らない国もありました。確かに待つように言われたはずなのに、どうも違うようだ、ということもありました。待っていれば解決するという確信があれば良いのですが、それもないままに不安を抱えて待っている時はついつい最悪のシナリオを考えてしまいがちです。
 市場の周りを歩いていると、床屋がありました。ホテルが水シャワーだけで、ひげを剃っていなかったので、髭剃りだけを頼んでみました。カミソリの切れ味は日本の床屋には劣りますが、結構丁寧にやってくれました。30ペソ。
 熱帯の日差しを浴びて歩き回っていると、冷たいものが欲しくなります。露天でバナナシェイクと書いてあるのを見て頼むと、今日はマンゴーしかないとのこと。しょうがなくマンゴーシェイクを頼むと砂糖漬けのマンゴーでシェイクを作っていました。生の果実をふんだんに使ったシェイクを期待していたのに・・・。次に、ファストフードの店でナタデココ・ゼリー・ウバイモのきんとん(?)などが乗ったかき氷ハロハロを食べました。ウバイモの触感が強くて、かき氷を楽しむのを邪魔するような感じで、口に合いませんでした。
 ハロハロを食べていると通りを白人の旅行者が歩いていきました。今回の旅行で始めてみたバックパッカー(らしき人)でした。だいたい大きな町ならどこの町に行っても、白人や日本人のバックパッカーに出会うし、その人たち向けの安宿やレストランが必ずあるのですが、バコロドにはそういうものが全くありませんでした。他の東南アジアの国より進んでいて(?)、ファストフードも多くあるし、英語も通じるので、特に旅行者向けのレストランというものが成立しにくいのかもしれません。旅行者が少ないだけかもしれません。
 ホテルに備え付けのサンダルがなくて、しかも、共同のシャワーなので、靴屋でシャワー用のサンダルを購入。
 ホテルに戻って休息、電話を待つだけでした。エアコンがなくて暑い。3時まで寝たり、本を読んだりして待ったのですが、電話はありませんでした。お昼を食べなかったので、3時過ぎにサンミゲルと焼き鳥。6時まで待つが、まだ電話はありませんでした。明日の朝にでも電話をしてみるしかなさそうです。
 6時頃、夕食を食べに出ました。先にインターネットカフェに寄りました。日本語でホットメールを使いたいというと、フォントをダウンロードしてくれました。ところが、1回目は回線が混んでいて途中で止まり、2回目はダウンロードしたのに日本語を表示できず、3回目にセキュリティのレベルを下げてもらってやっと使えるようになりました。店の人はあまり詳しくないようでした。しかも、あちこちから呼ばれて忙しそうでした。
 1通書き終えて、次を書こうとした途端にEplorerが止まってしまいました。再度立ち上げてもまたくダメでした。また、店の人を呼んで直してもらうのも面倒になり、諦めました。他のインターネットカフェで日本語を使えるか聞いてみましたが、どこもダメ。ゲームをやっている人が多いようでしたが、ホットメールやチャット、通販サイトを見ている人もいました。
 ちょっといいレストランでシーフードかフィリピン料理でも食べたいと思い、歩き回ったのですが、あるのはファストフードとパン屋と焼き鳥屋ばかり、結局、屋台でまた焼き鳥を食べました。焼き鳥を食べていると、乞食の子供が寄ってきました。店の人が追い払いました。食べきれずに焼き鳥を残してしまい、あの子にあげればよかったと後悔。満腹と空腹が隣り合わせ。

10月24日。朝、トイレに行こうとすると先客がいました。ちょっと離れて待っていると、出て来た人が「日本人ですか?」。5年前からフィリピンで日本人相手の何でも屋をやっているKさんでした。彼はチケットの手配などの旅行業からパスポートの再発行の手続き・結婚相手の紹介・夫婦喧嘩の仲裁などなんでもやっているそうです。直接空港で買うより安くチケットを手配できるというので、バコロド−マニラ便のチケットを頼みました。
 フロントで事務所に電話をかけると、Mさんは25日に戻ってくるので、午後4時に電話をするように言われました。昨日と話が違う!昨日日本語で聞いたことが間違いだったのか、あるいは、今日、別の人に英語で聞いたことが間違いなのか、悩みつつも、今日中に連絡がある可能性も考えて、バコロドもこのホテルも離れないで待つことにしました。
 もう一日はホテルに滞在することになったので、また、1日延長。暑さと部屋でやることがないので、エアコンとTVのある部屋に格上げ。
 朝食は昨日と同じ食堂で。空港に行く必要がなくなったので、博物館に行きました。ガイドブックにはネグロス島のサトウキビ栽培の歴史など「見ごたえがある」と書いてあったのですが、ジプニーに乗って行ってみると、展示はほんのちょっとでした。30分もかからずに見終わってしまいました。隣の公園に座って、ぼーっとしていました。バコロド周辺はバックパッカーがいないだけあって、観光できそうな所がほとんどありません。唯一ガイドブックに載っていた博物館も見てしまい、さてどうしようかと考えつつ、周りの風景を眺めていました。
 隣のパナイ島に行って昼食を食べてもいいし、もしかしたら戻ってくる友人と会えるかもしれないと思い、埠頭に行くことにしました。バコロドにはバゴドとブレドコという2つの埠頭があるのですが、博物館から近いバゴド埠頭に行ってみました。大都市の埠頭にしては小さくて人気のないさびしい埠頭でした。Negros Navigationというチケットオフィスでパナイ島のイロイロへのチケットを頼むと、ここからは出ていないのでブレドコ埠頭に行くように言われました。ガイドブックには両方の埠頭から出ているとあるのに、また、騙された(後でKさんに聞いてみると、どうも、埠頭の変更はここ数ヶ月の最近のことのようです)。
 街に戻るにもジプニーが来ないので、埠頭でまたぼーっと待ちました。バコロド周辺の海は土が流れ込んでいるせいか、濁っていて、ビーチリゾートという訳にもいきません。なかなか来ないので、タクシーで帰ろうか、ジプニーが走っている所まで歩いて行こうかと、歩き始めると、やとジプニーが来ました。しかし、昼食を取るから街には行かないよ、と言われてしまいました。さらに10分ぐらい待つとまた来ました。一応乗ったのですが、少し行った交差点で降ろされて、歩いていけという意味かそこで別のジプニーを拾えという意味かは分からないのですが、博物館から来た道を指差しました。お昼には学校の生徒たちが家に戻るようで、どのジプニーも一杯で10分ほどは乗れませんでした。やっと乗れたのはいいのですが、どこを通っていくのか分からないので、終点のLibertadまで行くことにしました。Libertadから歩いてホテルまで行こうと思ったのですが、地図から外れていて道を間違い、遠回りしてしまいました。方向音痴なので、地図で確認しないと必ず間違います。
 部屋に戻ってテレビでサッカーを見ながら休みました。ちょうど、日本が試合をしているところでした。もしかしたら、電話が入るのではないかと期待していたのですが、電話は鳴りませんでした。街の中はだいたい見てしまったのですが、おみやげを買っていなかったので、ダウンタウンのスーパーマーケットでドライマンゴーとパティスを買いました。海外でおみやげを買うというのは、せっかく忘れていた、仕事や日常の確定的な世界を思い出してしまう興ざめの行為です。
 部屋に戻ると、Kさんが飛行機のチケットを持ってきました。そのまま、1時間ほど話し込みました。ここに来る日本人とゆっくり話をするのは久しぶりだそうです。フィリピンはうそつきで、怠け者で、公然と賄賂を要求される、華僑がいなければもっと土人的な経済だっただろう、と言っていました。
 両替所の場所を聞いたら、レートのいい闇の両替商のところまで車で送ってくれました。路上に何人もの両替商がいて声をかけてきます。何度も歩き回っていたところですが、知らないと気付かないものです。
 夜食はまたまた焼き鳥。今度は屋台ではなく普通の店に入ってみました。味は屋台とあまり違いはありませんでした。

10月25日。夕方には事務所に電話を入れなければならないので、あまり遠くに行く子ともできず、かと言って街の中は見尽くしてしまいました。遠くには行けなくても、農村の風景を見ようと思い、マンブカルという山の中の保養地(?)までジプニーで行ってみることにしました。
 チェックアウトして荷物を預かってもらい、Libertadまで歩いていきました。バス乗り場に近づくと、ドライバーらしき人にどこに行くのか聞かれました。マンブカルと答えると、反対側にも同じようにジプニーが並んでいるからそこへ行け、とのこと。行ってみると、あるにはあったのですが、まだ、客が2人しかいなくて、しばらく出発しそうもありませんでした。こういう場合、だいたい、客が一杯になるまで出発しません。案の定30分後に出発しました。町を抜けると、サトウキビ畑が広がっていました。川の近くなどには少しだけ水田が見えます。遠くの山の方には森も見えますが、低いところには森はほとんど残っていません。たまにサトウキビをいっぱいに積んだ大型のトレーラーがすれ違います。サトウキビ畑は刈り取った直後の畑もあれば、50cm程度の苗木も、3mもの高さになった畑もありました。マンブカルは標高が高く涼しいところでした。保養地ということで、プールやゲストハウスがありました。もっとも、あまり立派ではありませんでしたが。ガイドを頼んで、滝を見に、山の中を1時間ほど歩きました。山の中にも人が住んでいて、切り立った斜面で花を栽培していました。
 また、ジプニーに乗って、Libertadへ戻り、近くのファストフード店でハンバーガー。たまにはいいかも。Libertad市場に入ると、中央市場と同じようなものを売っていましたが、1つだけ東南アジアらしいものを見つけました。ココナッツを山積みにして売っていました。その場でココナッツを削って、売っていました。
 夕方、ホテルに戻り、事務所に電話を入れました。ホテルから市外電話をかけるとずいぶん割高な電話料金を取られるのは分かっているのですが、どこに市外電話をかけられる電話があるのかも分からないし、探すのも大変なので、何度もここからかけていました。
 友人のMさんはパナイ島から戻ってきたそうですが、呼んでくるから10分後に電話を入れて欲しいということでした。今日中には会えそうなので、一安心です。20分後にもう一度かけると、Mさんはどこかへ、多分バコロドへ行ったということでした。戻ってきたら電話をホテルに入れてくださいと伝えました。
 30分経っても、電話が来ません。英語が通じなかったのか、こちらからかけなければならないのか、といろいろなことを考えながら待っていると、1時間ぐらい経ってからMさんから電話がかかってきました。空港で待ちあわせることにして電話を切りました。
 ジプニーで行くつもりでしたが、Libertadまで歩くのが億劫になり、タクシーを拾って空港まで行きました。Mさんは来ていませんでした。空港の前で待っていると、ポーターの1人が声をかけてきたので、暇つぶしに雑談をしていました。そのポーターもフィリピン航空の最終便が到着するまでは何もすることがなさそうでした。17歳から20年間ポーターをやっているそうです。友人のいるNGOの名も、所長のWさんも知っていて、荷物を運んだことがあるということでした。
 彼は「自分はポルテルだが、ポルテルは日本語でなんというのか?」と聞いてきました。多分スペイン語の影響なのでしょう、かなりなまった英語に聞こえます。ちょうどいい訳語を思いつかず、「日本語でも英語と同じポーターと言う」と答えると、「英語ではポルテルだ、日本語ではポーターか」と彼、「英語ではポーターで、ポルテルはスペイン語ではないか」と言っても、「いや、英語ではポルテルだ」と彼も譲りません。フィリピンで英語が通じなかったのは、自分の語学力のせいもあるけど、この訛りのせいもあるな、と納得しました。
 1時間経っても来ないので、電話をしようと、ポルテル氏に案内してもらって公衆電話のところまで行きますが、壊れていて、うろうろしていると、友人のMさんがやっと到着しました(接客中で抜けられなかったとか)。ほっと一安心。
 現地スタッフの運転で(途中でアルコールを調達して)以前来たNGOの事務所に着きました。Mさんは日本人スタッフ用の宿舎に住んでいましたが、もう一人のスタッフがちょうど日本に帰省しているところで、そのベッドを使わせてもらいました。立派な建物で、ホテルなら中の上と言ったところです。それから3泊、そこに泊めてもらい、食事も頂きました(日本食)。
 夜はビールを飲みながら、Mさんと話をしました。

10月26日。朝礼に参加しました。まるで、軍隊でした。掛け声に合わせて整列し、班毎に「1、2、3・・・異常ありません!」、しかも日本語。その後は、フィリピン国歌の流れる中、フィリピン国旗の掲揚。そして、ラジオ体操、しかも第2まで。形態はNGOですが、体質は会社か軍隊という感じです。
 NGOの原義は別として、実際に使われる時はいろいろな使われ方をします。私がイメージするNGO(あるいはNGO的なもの)は、情報も議論もオープンで決定過程に誰もが参加できる、というものですが、それとはかけ離れた組織でした。こんなNGOもあるのですね。
 午前中はNGOの敷地内を案内してもらいました。そこでは養蚕・養豚・米作を主にやっていました。養蚕工場では日本で使われなくなった機械を譲ってもらって使っていました。近隣の農家に技術指導をして、蚕を育てているそうです。NGO自身も蚕を育てており、桑畑が広がっていました。日本では荒れ果てて放棄された桑畑ぐらいしか見ることができないので、管理された桑畑も蚕も始めて見ました。稲はフィリピンで品種改良された品種で、多収量の品種だそうです。除草剤を使っているそうです。敷地のはずれには幼稚園がありました。ここの他にも、バゴ市との合同事業(建物はNGOが、教師は市が)で幾つかの幼稚園が建っているそうです。かわいい子どもたちが遊んでいました。
 お昼近くになって、バコロドに行き、Mさんのリクエストで日本食レストランで食事をしました。海外で日本食を食べるのは初めてでした。味はまあまあ、ちょっと違うかな、というものもありましたが、立派に日本食でした。
 友人が靴を買うのに付き合いました。以前私がサンダルを勝った店に行ったのですが、よく見ると、並んでいる靴はすべて片方だけです。棚の上にも下にも靴はありません。店の奥の方にロープが垂れ下がっていました。天井に穴が空いていて、2階の倉庫とつながっていて、下から片方の靴を投げ上げると、倉庫から片割れを探してきて投げ落とす、というシステムでした。
 この日から帰るまでずっとぐづついた天気でした。しとしとと長時間降る雨は20年以上フィリピンで暮らしているW所長にとってもはじめてということでした。気候変動のせいでしょうか?

10月27日。この日はバコロド郊外のショッピングモールに行きました。
 夕食は私のリクエストで、シーフードレストランへ。注文の仕方が分からないので、Mさんの友人のZさんも呼んで3人で。ZさんはNGOで最近まで働いていて、日本にも研修に行ったことがあるということで日本語はぺらぺらでした。ZさんはNGOを辞めて、農村でマッシュルームや野菜の栽培をするそうです。フィリピンでの都市と農村の関係は、多分日本の70年代のその関係のようなものなのでしょう、家族からは大反対されたそうです。日本では今でこそ、都市から農村へ行く人はいくらでもいますが、今のフィリピンにもそんな人がいるということを知って、勇気づけられました。マッシュルームの栽培がうまくいけば、周りの農民に広めるのが目標だそうです。ただ、有機農業とか生活全体の中での農業という観点ではなく、単に産業として農業を捕らえているようでした。
 シーフードはほとんど中華風でフィリピンらしさというものは感じられませんでした。
 その後、ボーリング場へ。フィリピンのボーリングはソフトボール程度の大きさで、小さ目のピンを3回で倒すものでした。ボールが軽くて、なかなか、まっすぐ転がってくれません。

10月28日。バコロド空港までMさんに送ってもらいました。成田への便もここでチェックインしたのですが、非常に時間がかかりました。オンラインではつながっていないのでしょうか。
 この日はちょうど台風が近づいていました。雨も風も強く、離陸直後から激しく揺れました。雲の上に出てやっと飲み物のサービスが始まったものの、10分もすると、またゆれが激しくなり、私のすぐ前でサービスは中止になってしまいました。
 内臓が浮き上がる感じがする程度のゆれならまだ良いのですが、体が浮きあがりそうになるくらいに揺れました。乗客の悲鳴が上がったことも何度かありました。今までのフライトで最も揺れました。
 マニラ空港で乗換。国際便のターミナルに行くと、出国カードは持っているかと警備員に聞かれました。ないと言うと、親切にも用紙を持ってきて私のパスポートを見ながら記入してくれます。更に、手荷物チェックカウンターまで案内してくれるのですが、さかんに同じ言葉を繰り返しています。初めは英語かと思ったのですが、よく聞くと「きもち、きもち」と言っています。どうもおかしいと思ったら、お金目当てのようです。言葉が理解できない振りをして、カウンターまで行きます。今度は、手荷物をチェックしている係員が金を要求してきます。また、何を言ってるのか分からないよー、というふりをして、逃れます。トイレに行くと、清掃員に制止され、トイレをきれいに拭いてくれます。「チップ、チップ」。再度無視。手を洗おうとすると、水を出してくれそうになるので、隣の水道にさっと逃げました。Kさんが言っていた、フィリピンでは公務員でも公然と賄賂を要求するというのを実感します。空港でこんなことにあったのは始めてです。
 放送を聞いていると、何度も謝っています。搭乗券を発行するコンピュータがすべてダウンしてしまって、飛行機が遅れているそうです。そのうち、係員が搭乗ゲート近くにいる人のチケットを一人一人チェックし始めました。1時間遅れで搭乗しましたが、残り1割ぐらいの人が全員乗るまで30分以上かかりました。搭乗券を発行していなかった人の分は手作業で席を割り当てていたようです。さて、出発だと思うと、今度は、台風の雨と風で離陸の許可が下りないということで、さらに30分待ちました。やっと、2時間遅れで離陸。
 成田はすっかり秋でした。いとことトランプをする約束をしていたので、なるべく早く電車に乗ろうと、急ぎました。荷物を預けていないので、1番乗りで税関へ、荷物を開けられることもなく、成田駅に着いたのは着陸から20分後でした。

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